年齢が上がってくると、「妊娠できるのかしら?」という心配もありますが、治療を続けていくうちに「妊娠できても染色体異常は大丈夫なのかしら?」という心配もありますね。もちろん、ダウン症(21トリソミー)のように、頻度も高く、さらには染色体異常としては障害の程度が低いため、心臓の奇形や精神発達の問題などあるにせよ、赤ちゃんとして生まれてきて、しかも一緒に退院して日常を過ごすことができるという染色体異常もあります。けれど、染色体異常の中には、そもそも胎児になれないような重い異常もあります。初期流産のほとんどの原因はこれだといわれていますが、だったら調べる手段はないのでしょうか?
遺伝って何?
生まれつき決まっていることを遺伝といいます。「生まれつき」というのを医学的には「先天性」とか言ったりもしますね。じゃあその遺伝はどこからくるかというと、人間の体を形作っている30-60兆個くらいの細胞(体重によって結構違う)の1個1個の中にある、染色体のなかに情報がはいっています。染色体というのは、DNAという物質でできた、いわゆる細胞の設計図です。この設計図、2本セットが23組あり、つまり全巻46本ということになっています。
遺伝子、というのも聞いたことがありますね?遺伝子というのは、染色体という設計図それぞれのページに書かれた内容をあらわします。だから、それぞれの遺伝子のことは、染色体の番号とそのページ数で表すことができます。
染色体異常って?
染色体の見た目、つまり数・形に異常があることを言います。たとえば、有名な染色体異常であるダウン症(21トリソミー)は、21番目の染色体の数が、普通は2本セットなところ、3本セットになってしまっている状態です。
遺伝子異常って?
染色体の見た目は2本セット23組で変わらないのに、ページの内容である遺伝子が正常とは異なることを言います。たとえば、アンジェリーナ・ジョリーさんはいわゆる普通の方ですが(普通じゃないか、大スターだもん。)、彼女、遺伝子異常の持ち主です。遺伝性乳がん卵巣癌症候群という遺伝子異常をお持ちでして、お母様も若くして卵巣癌で亡くされておられます。アンジェリーナ・ジョリーさん自身も、生涯に乳がんか卵巣癌にかかってしまう確率が8割を超えるため、乳房の摘出を決断されて大きな話題になりました。
遺伝子異常は、設計図のどこのページにミスプリントが起こるかによって、重大度が非常に大きく変わります。致死性骨形成症など、胎児の間にほとんど亡くなってしまうような遺伝子異常もあれば、アンジェリーナ・ジョリーさんのように大人になるまで問題が起きないけど致死的な癌にかかりやすいという遺伝子異常もあります。さらには、耳垢がべたべたするタイプと粉っぽいタイプなどどうでもいいことも実は遺伝子で決まっています。
どこまでが「異常」なの?
ここまでお読みになると、単なる「先天性異常」では話が片づけられないんじゃないかと思いませんか?生まれてすぐに亡くなってしまうような、染色体異常や遺伝子異常の一部は確かに「病気」なのかもしれません。じゃぁアンジェリーナ・ジョリーさんは、遺伝子的には「異常」だけど、それって生まれる前に見つけないといけない「病気」なのでしょうか?耳垢は?一応、日本人だと粉っぽいタイプが大多数だそうですから、私のように耳垢がべたべたするタイプの日本人は、もしかしたら「日本人としては遺伝子異常」と言っても間違いはないのかもしれません。でも、「あなたのお子さん、耳垢がべたべたする『病気』です」といわれたらどうでしょう。「え・・・あ、そうですか」以外の感想がでてこないですよね。帰りに綿棒買って帰るだけですよね。つまり、大事なことは「普通と違う異常は、すべて病気」とは限りません。
科学の発達で、調べれば調べるだけ「異常」が見つかるようになりました。普段外来をしていても「異常はないか調べたい」とか「正常な子が欲しい」とよく言われます。あなたは、どこまで、何を知りたいのでしょう?
染色体も遺伝子も正常なら、その子は「正常」でしょうか?病気にならないわけではないですし、人生でトラブルを起こさない保証もないです。
こういうことを言うと哲学的になってくるし、単に「願わくば健康な子であってほしい」と望む患者さんの揚げ足をとるみたいになるので、普段は言いません。まぁでもここは私の「本音」だしいいかなって思って、いつも考えていることを書いてみました。
妊娠したい人、妊娠している人にとって大事な線引きは?
やはり、着床不成功率・流産率・死産率・寿命、これらが明らかに低下するような先天性の異常は、「異常」として見つけていく意義があると思います。例外として、起こることのものすごく少ない、例えば世界で何人しかいないような珍しい先天性の異常については全員に対して調べてもコストパフォーマンスが悪いため、現実的とは言えず、除外しないといけませんね。そうなると、2万個以上あるといわれる遺伝子異常をすべて胎児期に診断するのは、ちょっと無理がありますね。お金も数千万円~1億円くらいはかかります。もちろん、あなたの家系で特別な遺伝子異常があって、しかも致死的で、避けなければならないような病気であるなら話は別です。すでにあなたも発症しているはずですから、主治医の先生にご相談ください。
じゃあ、染色体異常はどうでしょう。2万個ある遺伝子に比べて、46本しかない染色体の数と形を見るのはそうたいして難しいことではありません。しかも、数と形が違えば、必ず、複数の「異常」がでて、着床しなかったり、流産率・死産率の上昇が起こり、寿命低下や生殖能力の欠如が出現します。それなら染色体異常は「病気」といってもいいのではないか、というのが世界での共通認識です。
染色体異常があらかじめわかれば、一番大事なことは、生まれてからその子に必要な治療が予想できるので、確実な対応の準備ができます。もっと言えば、死産・流産が確実であるようなら、その胚を移植しないこともできる。着床不全とされている方の中には、もしかしたら染色体異常なだけの方も多く含まれているのではないでしょうか。そうすれば、着床不全の治療戦略も大きく変わります。せめて致死的な染色体異常のない胚を選べば、せっかく移植したのに何度も流産を繰り返して時間と心をすり減らす患者さんも減るでしょう。
出生前診断って?
胎児期に染色体異常(特殊な場合、遺伝子異常)がないかを検査することです。確定診断としては羊水検査しかありませんが、ほぼ確定診断レベルの精度を誇る診断に、新出生前診断(NIPT)というものがあります。妊娠10週以降、母体の10ccの採血のみで羊水検査と同等の項目が高い精度で判明するので、画期的な検査ですよね。
染色体異常については、母体年齢が上がるほど頻度が増えることが分かっているので、日本産科婦人科学会では「35歳以上または染色体異常児既往の妊婦」と適応を区切って、認可病院で行うべしとガイドラインを出しています。では、34歳以下で適応から外れた場合はどうするかというと、未認可の病院・クリニックで自由に検査を行うことは違法でもなんでもありません。
こういう状況は実は日本だけであり、世界的にはあらかじめ全例の妊婦健診に組み込まれていたりすることも多いです。倫理的な指針が厳しいのがいつもの日本の特徴ですね。
着床前診断って?
胚移植前の胚に染色体・遺伝子異常がないかを調べる検査です。PGT(preimplantation genetic testing)といいます。
PGT、というと先天的な情報、つまり染色体異常だけでなく遺伝子異常も含めた検査の意味になりますが、細かく分類わけがあります。
- PGT-M:遺伝子に異常がないかの検査です。2万個以上ある遺伝子全てを、全員が検査するのはさすがに現実的ではないので、重篤な遺伝子病を持つ家系の方が、その遺伝子がない胚かどうか調べるのに使われます。
- PGT-SR:染色体の形に異常がないかの検査です。一部の染色体の形の異常のなかには、別になんの病気でもないものもありますが、流産を引き起こす形の異常もありますので、そういうものを見つけるための検査です。
- PGT-A:染色体の数に異常がないかの検査です。ダウン症(21トリソミー)、ターナー症候群などを見つけることができます。
- PGT-S:性染色体だけを調べる検査です。つまり、究極の男女産み分けですね。さすがに倫理的にどうなのということで、これは禁止している国が多いです。
不妊治療でおそらく日本でも今後一般的になってきそうなのが、PGT-Aですね。「妊娠したい人、妊娠している人にとっての大事な線引きは?」の項目でもお話ししたように、染色体の数に異常があれば、多くの場合、着床しなかったり、流産・死産になることが分かっています。染色体の数が46本ある胚だけを移植すれば、今よりは着床率の上昇、流産率の低下が期待できます。しかも、染色体の数を数えるだけならそこまで大変な検査ではないため、料金もお手頃で、胚1個あたり2-5万円が相場です。胚移植1回より安く済みますから、そういう意味でも納得のいく検査です。羊水検査は10-15万円、NIPTは20-25万円ですから、「安いなあ」と思います。正直、私は胚移植をするたびに「PGT-Aができればなあ」と思っていました。
もちろん、これだけですべての染色体異常・遺伝子異常は分かりませんから、PGT-Aで異常がなくても先天性の病気がないというわけではありません。
2019年現在、一部の病院でしか行われていませんが、今後数年ののちには広く全国に広がっていくだろうと予想しています。今までの、抗凝固療法だとか慢性子宮内膜炎だとかの検査や治療にとってかわり、原因不明の着床不全や、習慣流産などで苦しむ方にとってはPGT-Aが一番のチョイスになるだろうことは間違いないでしょう。